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堀越二郎はクズ野郎?宮崎駿『風立ちぬ』(2013)

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早いもので公開から4年も経ってしまっている。

初めて『風立ちぬ』を見た時、なんだこれ、と思ってしまった。主人公の船越二郎が結核を患っている菜穂子の前で煙草を吸い始めたからだ。

映画の中で二郎は善良に振舞ってはいるけど、すっかり妹との約束を忘れたり、哀れみしか感じられなかったのか孤児にお菓子をあげて拒否されたりと、じわじわ偽善者っぽい表現がされている。

菜穂子の前で煙草を吸い始めたところで「こいつクズじゃん…」と確信に至る。自分のことしか考えてない奴にしか見えなくなる。

そして宮崎駿は戦争否定派なので、この映画が戦争を賛美してないとすると、武器が好きだけど戦争は嫌だっていう自分を肯定する為の映画だったのかなーと思った。

 

でもとある批評サイトで「菜穂子も自己中心的だ」という指摘を読んで、確かにそうだなと思った。

だって結核を治したかったら大人しく入院して安静にするよなぁ、愛する人とまた暮らしたいって思うなら尚更。二郎は入院すれば会いに来ないんだろうけど、普通の感覚ならそこで男女として別れる。でも菜穂子も自己中心的だから、悲劇のヒロイン的な道を歩むのが美しいと思ってたんだろうなぁ。

その批評では最終的に、自己中心的で矛盾を持つ人は根本的に同じじゃない、違う道を歩み、違う夢を見ている私と他人を混同するな、という結論に読めた(違うかもしれないけど)。

私はどうしても戦争と結びつけて考えてしまうのだけど、戦争を否定したり賛成したりするのって、例えば善良とか悪人とかどんな立場でも関係ないんだなって思うきっかけになった。

私は戦争否定派だけど、二郎みたいに薄情なところあるし、偽善者になったりもする。でもそれは戦争に対して持つ意見とは全く相関しないものなんじゃないか?と。だって一緒だったら何も主張できなくない?

それを考えたら、わりと肩の力抜けた。いつも気張ってる必要ないし、自分の思う通りに生きるって大事だなって。

自己中心的で、矛盾を抱えるって普通によくあることなんだよね。

 

風立ちぬ』は弁解というよりも、そうしたスタンスの映画なのかもしれない。

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